【ポーランド③】“アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所”に行ってみた

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《2024.1.19》

本日は、歴史に興味のない人でも必ずその名を一度は耳にしたことがある“負の世界遺産”に足を運びたいと思います。
『アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所』です。

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の概要

ご存じの方も多いかと思いますが、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は、第2次世界大戦中にナチス・ドイツが人種差別による絶滅政策および強制労働を行い、最大級の犠牲者を出した強制収容所です。

ドイツによって作られた施設であることからドイツ国内にあると思われがちですが、場所は、ポーランドのクラクフ近郊のオシフィエンチムという町にあります。

ヨーロッパ中から集められた収容者の90%はユダヤ人で、その9割以上は生きてこの収容所を出ることは出来なかったといわれています。
犠牲者の数はこの収容所だけで150万人と言われていますが、到着後すぐに名簿に載せられることもなく殺害された人も多く、その総数ははっきりとは分かっていません。

チケットとツアーについて

世界遺産にも登録されているアウシュヴィッツですが、入場は無料です。

但し、日中の大半の時間は有料ガイド付きのツアー枠となっている為、個人での無料入場は早朝か午後の遅めの時間に限定されています。
また、個人で無料入場したい場合にも、現地の窓口か公式サイトから時間指定の見学チケットを予約する必要があります。

有料ガイドツアーは英語とポーランド語がメインですが、1名だけ中谷さんという日本語のガイドもいらっしゃるとのこと。
せっかく行くなら、きちんと理解を深めたいと思い中谷さんに連絡を取ったのですが、期日がギリギリだったため、既にツアーは満員とのことでした。
日本語ツアーの予約方法は他サイトで紹介されていますので、希望の方は1か月くらい前には連絡を取った方がよさそうです。

英語かポーランドのガイドでは結局言葉の壁で理解を深められそうなので、私は個人で入場・見学をすることにしました。

こちらが無料入場チケット

私が行った1月は、日没が早く閉館時間も早い為、13時45分と割かし早めの時間から個人での入場枠がありました。(季節によって変わります)
尚、当日現地のカウンターでチケットを取ろうとすると、最悪枠が空いていないこともあるようです。
公式サイトでも、人気の時間の無料入場枠は早い段階で満員になってしまっていたので、行く日にちが決まったらすぐにチケットを取ると良いかもしれません。

※アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は、“アウシュヴィッツ”と“ビルケナウ”の二つの施設に分かれています。アウュヴィッツの方はチケットの指定時間にしか入場できませんが、ビルケナウの方は、アウシュヴィッツのチケットを提示すれば時間帯にかかわらず終日入場が可能です。
私は指定時間以降でなければ両施設共に入場できないと思い込んでいた為、アウシュビッツ見学後にビルケナウに移動したのですが、これが大失敗でした。(詳細は後述します)

クラクフ市街からアウシュヴィッツへ

アウシュヴィッツ強制収容所に行くには、Oświęcim(オシフィエンチム)という町を目指します。
※アウシュビッツはオシフィエンチムのドイツ語名。

クラクフ市街地からオシフィエンチムには、バスか電車でアクセスが可能。

電車で行くと、到着駅からアウシュヴィッツの入り口まで2kmほど歩かなくてはいけないようですが、バスなら入り口の近くで降りることが出来るそうなので、バスで向かいたいと思います。

バスステーションの場所はクラクフ中央駅直結のこのあたり。
バスはいくつかの会社が運行していて本数も多いようなので、まぁ乗れないということはないでしょう。

・・・と思ったら、なんと、バスには乗れませんでした。

チケットオフィスで尋ねたところ、午前中のオシフィエンチム行きは既に売り切れで、一番早い便は午後2時だというのです。

真冬の閑散期だというのに、満席とは。。
いや、逆に真冬だからこそがっつり減便してたとか…?

とにかく、残された手段は電車のみ。
急いでクラクフ中央駅構内へと駆け戻り、電光掲示板でOświęcimの文字を探して、切符を買い電車に乗りました。
焦ってたので、料金は忘れました。15ズウォティとかだったような。

オシフィエンチムまでは1時間20分程の道のりです。

車内はとても綺麗で快適でした。

オシフィエンチム駅からアウシュビッツまでは徒歩20分程でしたので、歩いて向かいました。

入場

さて、いよいよ到着。
こちらが、アウシュヴィッツの入り口です。

建物に入ると、売店や荷物預け場所などがあります。

売店で、日本語のガイドブックを購入しました。
20ズウォティと安くはありませんが、これがあるかないかで見学の理解度は大きく変わります。
言葉が分からないのに英語やポーランド語のツアーに参加して回るくらいなら、この1冊を購入して自分で回った方が、絶対有意義な気がします。

入場時間より少々早く到着したので、入場ゲート前のベンチで時間を潰します。
チケットに記載された入場時間になると、ゲートでQRコードを提示して入場が可能です。

入場ゲートの先には、重々しい鉄の扉があります。
この扉を抜けると、アウシュヴィッツの見学の始まりです。

見学の様子

扉を抜けると、かつての収容所へと続く無機質な通路があります。

ここでは、この収容所で亡くなった方たちの名前を読み上げる音声が、淡々とスピーカーから流れています。

通路を抜けると、収容所への入り口となる門に突き当たります。
門には“労働は自由を作る”という文字が残されていますが、実際には働いても自由になることは決して無かったそうです。

門をくぐると、そこにはかつて収容所として使われた建物群が残されています。
これらの建物は、もともとポーランド軍兵舎だったものを、ドイツが占領後に接収して“強制収容所”としたのだそうです。

建物のうちのいくつかは、博物館として開放されています。
施設内には順路案内等は無いのでどこから見学すれば良いのか迷うところですが、売店で購入した日本語ガイドブックを参照しながら進んでいきます。

・・・・・・・・

博物館には、収容所の歴史や概要、当時の写真や遺物など、多くのものが展示されていました。
※多くの人に悲しい過去を知ってもらいたいとの意図から、施設や展示品は、一部の遺品を除いて基本的に撮影可能とのことです。

これは、アウシュヴィッツの収容者がどこから集められたかを示す地図です。
これを見ると、この収容所にはヨーロッパ全土からユダヤ人をはじめとする収容者が集められたことが分かります。
アウシュビッツは、ヨーロッパの中心と言える場所に位置し、鉄道の接続も良く、広大な土地が確保しやすかったことから、巨大な収容所を作る条件が整っていると考えられたそうです。

“選別”を受けるため、並ばされる人々の写真。館内には多くの写真展示がありましたが、凄惨な写真や、収容者の表情がはっきり分かるような写真にはカメラを向ける気にはなれませんでした。

ヨーロッパ各地から貨物列車に詰め込まれこの地に集められた人々は、到着後すぐ性別ごとに整列させられ、“選別”を受けなければなりませんでした。

ここで、労働者として価値無しと判断された人たちは、名簿に登録されることもなく、そのままガス室に送られます。

ガス室では、抵抗やパニックを防ぐために、“シャワーを浴びさせる”との嘘の下で誘導が行われたそうです。
シャワー室と称した部屋には猛毒の殺虫剤が投げ込まれ、何万もの人の命が次々と奪われていきました。

これらは、その時使用された殺虫剤の缶です。
山積みの缶が、奪われた命の多さを物語っています。

殺虫剤の缶が展示されている建物内には、収容された人たちから奪われた持ち物も数多く展示されています。

鍋や食器などのキッチン用品。

収容者の持ち物には、キッチン用品の他にも、衣類やクシ、靴磨きの道具に至るまで様々な生活用品がありました。
強制連行される際、収容者たちは「これは、新たな居住区への移送だ」と説明されたそうです。
これらの持ち物からは、ここに連れてこられた人たちが“ここで新しい生活が始まる”と信じ込まされていたことが分かります。

靴。
時間の経過で古びてはいますが、おしゃれなデザインのものも多いです。

カバン。
収容所に到着して持ち物を徴収される際、人々は『後から返却するからカバンに名前を書くように』と指示されたそうです。
しかし、これはこれから起こることを悟られないようにするためであり、実際には、これらのカバンが持ち主に返されることは二度とありませんでした。

遺品の中には、収容者たちの大量の髪の毛も残されていました。※ここだけは撮影禁止
収容者から刈り取られた髪の毛は、生地の材料として使われたそうです。

これは、実際に使われた囚人服。
選別を生き残った人も、そのほとんどが過酷な労働や伝染病、人体実験などで命を落としたそうです。

銃殺刑が執行された『死の壁』

ガス室。
ここはビルケナウの第二収容所に大規模なガス室が作られるまで使用されたそうです。

遺体の焼却炉。
当時のものは戦後解体されており、こちらは設計図を基に復元されたものです。

博物館には他にも、思った以上に膨大な量の展示がありました。


ブログとして記事をまとめる都合上淡々と綴ってきましたが、生々しい写真や実際の遺物などを目にすると苦しくなる場面も多く、見学にはかなりの時間を要しました。

気付けば、すでに時刻は16時近く。日が暮れかけています。

まだ見きれていない展示もあるのですが、もう一つの“ビルケナウ”の方に移動しなければ閉館に間に合わなくなるため、移動したいと思います。

アウシュビッツからビルケナウへは、無料のシャトルバスが出ています。

こちらが、第二収容所として作られたビルケナウ強制収容所の入り口です。
入り口でアウシュヴィッツの入場チケットを見せて入場します。


こちらは、アウシュヴィッツのような博物館や展示物はほとんどありません。
また、その建物の多くは終戦間際に隠蔽の為破壊され、現在では広大な土地が広がっています。

ヨーロッパ各地からユダヤ人を運んできた貨物車。(おそらく復元されたもの)

ここは、到着した人々が“選別”をされた場所だそうです。

破壊を免れた収容者の宿舎。
この内のいくつかは、中にはいることが可能です。

収容者の寝床とされた3段ベッド。
4~5人が各ベッドに押し込まれたそうです。

私が行ったこの時は丁度真冬で、建物内は屋外と全く変わらず冷え込んでいました。
このような環境で人間がまともに休めるはずもないことは想像に難しくありません。

壁に絵が描かれた棟もありました。
はっきりしたことは分かっていないようですが、皆の心を少しでも癒すために収容者の中で絵の得意な者が許可を取って描いたのではないかとのことです。

水場。
トイレや洗面所を使用する時間は1日2階に限定されており、宿舎内は常に不衛生な状況で、伝染病も蔓延していたそうです。

ここでふと、あることに強い違和感を感じました。
写真では分かりずらいでしょうが、水場のシンクには、明らかに『石鹸置き』だと思われるギザギザの窪みが等間隔に設置されているのです。

しかも、水が溜まるのを防ぐために水捌けの溝まであります。

当時ここに収容された人たちは、そのほとんどが命を落とすほどの劣悪な環境に置かれていました。
ヨーロッパ各地から次々とユダヤ人が送還されてくる中、労働力は常に補充が可能なものとされ、収容者を生きながらえさせることは考えられていなかったのです。
食事は、『朝食:約50CCの濁った飲み物。昼食:ほとんど具のないスープ。夕食:300gほどの黒パン、3グラムのマーガリン』(※一例)のみ。

そのような中で、この石鹸置きは何の役割を成したというのでしょうか?
それより必要なものが、もっとたくさんあったはずなのに。

ここで何があったのか、本当のことを知っているのは当時をここで過ごした人たちだけです。

見学している内に日が暮れてしまいました。
気付けば、他の観光客の姿もありません。

過去にここで起こったことを思えば尚のこと、暗闇にこの場所に一人でいるのは正直背筋がぞわっとするものがあります。
しかし、最後まで見学したいという思いが勝ち、スマホのライトで辺りを照らしながら各宿舎棟を出来る限り見学しました。

見学を終えゲートに戻ると、既にゲートは閉まっていました。
暗くなった時点で薄々感づいてはいましたが、既に閉館時間は過ぎていたようです。

閉館時間に蛍の光が流れることも無ければ、見回りが来て注意されることもなかったので、一体いつから閉館してたのかは不明です。※日没時間に応じて閉館時間は変わります。

守衛さんが、「え…まだ中に人いたんだ…。」というような反応で外に出してくれました。

※このような状況にならない為に、アウシュヴィッツを午後の時間帯に無料見学される方は先にビルケナウを先に見学した方が時間に余裕ができると思います。私も、午前中のうちにビルケナウを見学しておけば良かったと後悔しました。
ビルケナウは、アウシュヴィッツの無料入場チケットを提示すれば、時間帯に関わらず入場が可能です。

帰りは、このビルケナウ収容所のゲートからオシフィエンチムの駅まで徒歩で移動し、電車に乗ってクラクフの街に戻りました。

感じたこと

本やTV番組、歴史の授業などから、「アウシュヴィッツで過去に何が起こったのか?」は情報として知っていました。
しかし、実際の現場に立ち当時の資料や遺物を目の当たりにすることで、『これは本の中では無く実際に起きたことなのだ。』ということを強く実感することが出来ました。

この悲惨な過去について知った時、『ヒトラー率いるナチスは、なんてひどいことをしたんだ』と感じる人は多いと思います。
しかし、ユダヤ人差別をスローガンに掲げたヒトラーを指導者に選んだのは、当時の国民一人一人であったといいます。
第一次世界大戦の敗戦により混乱していたドイツで「ユダヤ人こそ我々の敵だ、不幸の原因だ」と叫び人々の憎しみを煽ったヒトラーと、その言葉を指示した国民によりナチスは大きな力を持ったのです。

そうなると今度は、『ドイツ人はなんてひどいんだ』と考える人も出てくるかもしれません。

しかし、そうでしょうか。

人間は誰しも負の感情を持っています。
自分とは考えの違う他者を排除しようとしたり、自分よりつらい状況にある人を見て安心感を覚えたり、うまくいかないことがあった時に誰かのせいにしようとしたり、それは何も、戦争に加担するような攻撃性のある人だけが持っている感情ではありません。
迫害による大量虐殺は、多くの人の負の感情に欲望や同調圧力が絡み合って起きたことであり、ヒトラーと一部の官僚だけの問題でもドイツの国民性の問題でもなかったと思います。

では、これは過去の話であって、現代に暮らす私たちには関係ないと割り切ることができるものでしょうか?

時代が変わっても、人間の本質は変わりません。

世の中ではいじめ問題が無くならず、SNSでは誹謗中傷が後を絶ちません。
恨みつらみによる悲しい事件も珍しいことではありません。
事件にまで発展せずとも、怒り、不安、焦り、憂鬱、いら立ち、憎しみ、恨み、嫉みなどによる差別や仲間外れ、人を傷つける言動などは、振り返ってみれば私たちの周りにあふれています。

人間の本質は、ホロコーストが起きた当時とそう変わっていない気がするのです。
きっと、現代の世の中でも、条件がそろえば人間はいくらでも残酷になれます。

では、そうならないように何ができるのか。
その一つが「過去を知ること」ではないかと思います。

過去に、人間の負の感情によってどんな悲惨な出来事が起きたか?
それによってどれだけ多くの人が命を落とし、悲しい思いをしたか?
それを正しく知ることは、少なくとも少しは、未来に起こりうる惨事への抑止力になるのではないかと。

世界に目を向ければ、現在も紛争や迫害は決して無くなってはいません。
それに対して自分個人が出来ることははっきり言って何も思いつかないのですが、それらについても、過去と同様にまずは知ることが大事だと、改めて思いました。

アウシュヴィッツ訪問は、そういった諸々のことを考える貴重な機会となりました。
来ることが出来て、本当に良かったです。

※まとまりのないことをダラダラと書き連ねてしまいましたが、あくまでも個人の感想です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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さて、絶対に行きたいと思っていた世界遺産2箇所への訪問を達成した為、次回はクラクフから隣国チェコ共和国へと移動していきたいと思います!

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