【ルーマニア①】ソフィアからブカレストへ&ブカレスト観光

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《2024.1.4-

ヨーグルトをたらふく食べてお腹を壊したブルガリアを離れ、隣国ルーマニアの首都ブカレストに向かいます。

ソフィアのバスターミナル。
そこそこ大きくて綺麗なターミナルです。

ブカレスト行のバスはいくつかのバス会社が運行しているようでしたが、その中で一番安かった上の写真の真ん中に写っている青い文字のバス会社でチケット購入。
時間、金額、バス会社の名前などは記録を残すのを失念してしまい、さっぱり覚えておりません。
これだから中途半端な精神のブロガーは困ります。

バスは夜ソフィアの街を出発し、2時間程予定より遅れてブカレストに到着しました。

私としては、夜も明けぬうちに到着しても行き場に困るので2時間の遅れはむしろありがたいくらいでしたが、同乗していた男性は「飛行機の時間に間に合わない!どうにかしてくれ!」と頭を抱えて絶望していました。
特に海外では、交通機関が予定の時間に到着することは稀です。
数時間の遅れも日常茶飯事なので、予定通りに到着する前提で次の予定を立てることは大変リスキーです。

ブカレストで泊まったのは、First Hostel
一泊1800円弱とお安かったので問題のある宿なんじゃないかと心配しましたが、立地も良いし清潔でおしゃれな快適宿でした。
ヨーロッパはとにかく宿代が高いと聞いていましたが、この辺りはまださほど心配することはなさそうで一安心。

さて、宿に荷物も放り込んだので、街歩きに出発します。

ここ最近行った国(ギリシャ除く)の首都はいずれもちょっと微妙なかんじだった(←失礼)のでブカレストにも全く期待はしていなかったのですが、予想に反してなかなかおしゃれな街並みです。

特に旧市街の街並みは、完全にヨーロッパといった雰囲気で大変すてきです。
いや、実際地理的にヨーロッパなのですが、隣国ブルガリアの街並みは正直あまりヨーロッパという感じではなかったので、ルーマニアも似たような感じかと思い込んでいたのです。

ブカレストはかつて、東欧の小パリと称されるほど美しい街並みが評判だったのだそうです。
残念ながらその多くは第2次世界大戦や、その後の独裁政権時代に破壊されてしまったそうですが、その後の開発により、旧市街は美しい街並みを取り戻しつつあるようです。

中には破壊を免れ100年以上の時を刻んだ建物や路地もところどころに見られます。
こちらは、マッカ ヴィッラクロス・パサージュという1841年に作られたアーケード街。

旧市街には、美しいと評判の書店“カルトレシティ・カルーセル”もあります。
開放的な吹き抜けが大変おしゃれで洗練された雰囲気です。

本の陳列方法一つとってもおしゃれさがにじみ出ています。
うっかりよそ見でもした人が突っ込んだ日には、ドミの倒し方式で全部台無しになるディスプレイです。

こちらは、旧市街にあるスタヴロポレオス修道院教会。1724年に建てられたそうです。

中は壁画びっしり。
ブカレストにはこの他にもいくつか同じ年代の教会がありますが、どこも割と似たような雰囲気でした。
一つの街の中でいくつもの教会やモスクに行く場合、大概一つ目は“おぉ!!”となり、二つ目以降はその感動は薄れ、最後には休憩所的な扱いへと変わります。
教会は大抵無料で好きなだけ居座れるし、神の御前なので治安も良いし、休憩にはもってこいなのです。

ちなみに、旧市街は夜になると、怪しげなネオン輝く風俗店的な店が、あちこちで存在感を放ちはじめます。
ルーマニアは風俗が法律で禁じられていると聞いた気がするのですが、むしろぐいぐい主張してくる感じは意外でした。
夜でも特に治安の悪さは感じないので、よほどおかしな路地などに入り込まない限り街歩きは可能だと思います。

ブカレスト市内には、かなり大きめのショッピングモールもあります。
日本でもよく目にするような欧米系のファッションブランドなどが多く入っていて、旅の最中であることを忘れて普通に服など買いたくなります。

このかんじは久しぶりです。
度々比較に出して申し訳ないのですが、ブカレストは近隣のバルカン半島の国々の首都より何だかあか抜けた印象を感じます。

丁度年始のセールでお安くなっていたので、トレッキングもできそうな運動靴を購入しました。
これまで履いていたスニーカーは、歩きすぎで内側が破れて中身が飛び出している上に、ジョージアの鉄道で暖房に足をのせた際に裏面が溶けて、割と限界に達していたのです。
今後、ヨーロッパを西に進めば進むほどよりおしゃれで品数豊富な店が増えそうな気もしますが、その分物価も上がりそうなのでルーマニアで手を打っておきたいと思います。

垢抜けたショッピングモール内を走る垢抜けない乗り物。
こういうのを見ると、なぜか肩の力が抜けてほっとします。

さて、おしゃれな街並みあり立派なショッピングモールありのブカレストですが、その過去には決して明るくない歴史があります。

ルーマニアはかつて、ニコラエ・チャウシェスクという指導者による独裁政治が行われていた国です。
かつてといってもそう遠い昔のことではなく、独裁制が終わりを迎えたのは1989年のことです。
チェウシェスクは、外国資本を参入させてルーマニアを農業国から工業国にした一方で、北朝鮮に倣って自身とその妻を国民に崇拝させ、経済の中央集権化や人権の抑圧、個人の自由や表現の自由を制限したといわれています。

こちらは、チャウシェスク元大統領が自らの権力と権威の象徴として建設を命じた“国民の館”と呼ばれる建物です。

当時ルーマニアは、他国からの借金を返済するため、国内が著しく貧しい状況に陥っていました。
国民は配給制により十分な食料や物資も与えられず、電力や燃料に至るまで使用が制限され、街は常に秘密警察に見張られていました。
労働力を増やすために、25歳以上の子供のいない男女は高い税金を課せられたり、堕胎や避妊を禁止する無理な人口増加政策が行われたせいで、街の中は孤児であふれていたそうです。

そんな中で、チェウシェスクはこの国民の館に約1500億円もの巨額の資産を投じ、国民の暮らしを顧みず贅を尽くした生活を送っていたのです。

そんなことを続けていればもちろん国民の不満は高まるわけで、1989年にはついにルーマニア革命が起こりました。
チェウシェスクは裁判にかけられ、死刑が宣告された5分後には刑の執行によりこの世を去ったそうです。

ルーマニア革命では、独裁政権に反対する国民とそれを収めようとした秘密警察の衝突により1000人以上の人が亡くなりました。
ブカレストの革命広場には、犠牲者のための慰霊碑が建っています。

碑の後ろに見える白い建物は、チェウシェスクが最後に国民の前で演説を行った場所です。
彼は、国内各地で独裁政権に反発する騒ぎが起こっているにもかかわらず、演説の場に立つまで“自分は国民から支持されている”と確信していたそうです。

彼とその妻が銃殺刑に処されたのはそれから僅か4日後のことです。

その当時のルーマニアの状況や国民の置かれた状況を思うと、革命は起きてしかるべきだったと思うし、そのおかげで民主化が果たされ今日の美しいブカレストの街があるわけです。
しかし、自分達が支持されていると妄信してしていた彼らが、たった4日のうちに殺されてしまったことを思うとなんとも言えない悲しい気持ちになります。
殺されるしかなかったのだろうかと。

刑に処されるその時チェウシェスクは一体何を思ったのでしょうか。
国民への懺悔の気持ちは少しでもあったのでしょうか。
それとも、自分の身を憐れんでいたのでしょうか。

そんな悲惨な歴史とは対照的に、晴れ渡った革命広場では地元の若者たちがスケートボードに熱中していました。

知ったようなことをダラダラと書き連ねましたが、私は正直、その多くを知りませんでした。
今回ブカレストでその歴史を知り、改めて“今日の暮らしは歴史の上に成り立っている”ということを実感した次第です。

旅をするということは、ただ単に美しい街並みや景色を見たりするだけでなく、その土地の歴史に直に触れるチャンスでもあると思います。
時には今回のように明るくない過去に直面することもあるわけですが、“見て、知って、考える”という機会を逃さないように旅をしていきたいな、としみじみ感じたブカレスト滞在でした。

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コメント

  1. 匿名 より:

    ルーマニア①の日付が2023年になってますよ。

    • SACHIE より:

      ありがとうございます!
      また何かおかしなこと書いてたらぜひご指摘いただけましたら幸いです!

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