《2023.10.24-27》
オーランガバードからインド鉄道で約7時間、ムンバイに移動してまいりました。
ムンバイは、首都デリーを凌ぐほどの大都市で、都市の規模は世界的に見てもかなり上位に入るんだとか。
私としては特にムンバイに行きたい理由はなかったのですが、南インドから北インドに戻る中継地として都合が良いことから立ち寄ってみることにした次第です。
さて、ムンバイ到着後の第一印象は…暑い。。
11月ということで、今までの他の都市はそこまで暑さに悩まされることなく気持ちよく観光できていたのですが、ここムンバイはわけが違うようです。
調べてみたところ、ムンバイは熱帯地方に属し、11月の平均気温は33度。日中の最高気温は35度越えが当たり前のようで…そりゃ暑いはずだ。
一方、チェックインしたムンバイ郊外の格安ドミトリーの室内は、クーラーがんがんの冷蔵庫状態。
お分かりいただけますでしょうか。
エアコンから私のベッドの距離、わずか50㎝。
夜通し16度の冷風がダイレクトに吹き付け、ありったけの衣類を着ても寒くて凍える状態。
外に出れば灼熱、宿に戻れば極寒を繰り返し、おかげで私はムンバイですっかり風邪をひきました。
そんなわけで、コンディションがずっとイマイチだったムンバイ滞在ですが、多少は観光もしました。
走行中も常にドア全開のいかにもインドっぽい市内電車に乗って旧市街へ。
旧市街到着。
「…あれ、ここはヨーロッパ?」と思うような街並みです。
ムンバイの旧市街は、イギリス植民地時代の建物が多く、その街並みはまるでヨーロッパです。
そして、この歴史的にも価値のありそうな西洋建築の数々は、特別扱いされることもなく今でも現役の大学やらオフィスやら役所やら、様々な機関として使用されています。
クラクション禁止の看板発見。
確かにインドの他の場所に比べればムンバイの旧市街は格段に静かです。
トゥクトゥクの乗り入れが禁止されているらしくしつこい客引きも皆無だし、道にゴミも落ちていません。
なんだかほんとにここ、インドじゃないみたい。
…と思ったら、道端でおじさんがおじさんの足の爪を切ってたり。
前言撤回です。やっぱここインドだわ。
さて、まずはじめに来たのはインド門。
ぶっちゃけ、特徴があるわけでもないただの門です。
イギリス植民地時代に、当時の英国王夫婦の来印を記念して建立されたものだとか。
来印記念の為だけにこれだけ大きな門を作るとは、えらい騒ぎです。
インド門の向かいに見えるのは、かの有名なタージ・マハル・ホテル。
世界有数の豪華ホテルとしても有名ですが、私の中でのイメージは、映画『ホテルムンバイ』のモデルになった場所です。
2008年のテロではここで多くの方が亡くなったのだそうで、旅に出る前に丁度映画を見たばかりだった私としては、何となくこのホテルが物悲しい雰囲気を放っているように見えました。(実際にはホテルは多くの客で活気にあふれています。)
中にも入れるらしいのですが、服装が場違いすぎてつまみ出されそうなので断念。
所変わって、こちらはマニ・バワン・ガンディー博物館です。
ここは、インド独立運動の指導者であるガンジーが、ムンバイでの活動の拠点として17年間使った家だそうです。
中は博物館になっており、入場料は20ルピーです。
受付でいただいたパンフレットがなんと日本語でした。
建物は3階建てで、1階はガンジーに関する書籍を読むことができる図書室になっています。(日本語の本はありません。)
2階には、ガンジーにまつわる写真やポスター、手紙等が展示されています。
こちらは、ガンジーがあのヒトラーに宛てて書いたという手紙です。
“Dear Friend”から始まる手紙には、『この惨事を止められるのはあなただけだ』ということが書かれているようです。
英文の解読が苦手な私でさえ分かるほど、きちんと相手の心に届くことを願って丁寧に書かれた文章です。
しかし、当時の戦禍の中、この手紙が実際にヒトラーに読まれることはなかったようです。
インドの為に国民が一丸となることを訴えるポスター。
イギリスからの独立を目指す中で相手国の言語である英語でポスターを作ったのは、イギリス側に断固たる姿勢を示す為でもあったのでしょうか。
3階には、ガンジーの生涯のジオラマが展示してあります。
英語の解説もあり、ガンジーの一生を詳しく知ることが出来ます。
ここは、ガンジーが実際に使用していた部屋です。
ガンジーはここで糸車の使い方を覚え、人々にイギリス製の綿製品を手放して糸を紡ぐことを訴えたんだそうです。
小さいながらも大変見応えのある、素晴らしい博物館でした。
次にこちらは、ドービー・ガート。
イギリス植民地時代から100年以上の歴史を持つ、ムンバイ最大の屋外洗濯場です。
その広さは広大で、果てが見えないほど。
インドでは、人間の体から出る汗や体液は穢れとみなされ、それに触れる洗濯業はカースト外の不可触民の仕事なんだそうです。ここで働いている人たちも、例外ではない模様。
洗濯場が一望できる橋の上のデッキからボーっと景色を眺めていると、お土産売りの少女たちが話しかけてきました。
「どこから来たの?日本!日本は良い国だよね!日本へのお土産に、このポーチはいかが?それともこっちのスカーフはどう?あ、あなた名前は?」
私をロックオンした彼女たちは留まることを知らず次々に話しかけてきます。
やんわり断るだけじゃ引いてくれそうもないな…。
そう思った私は、「私は買いません。悪いけど一人にしてください。」と強い口調で彼女たちを拒絶しました。
その瞬間の彼女たちの少しこわばったような、私を蔑むような表情が忘れられません。
力仕事を伴う洗濯場で働けるのは男性のみで、ドービー・ガートに生まれた女の子は、彼女たちのようにお土産を売ったり他所に働き口を見つけて生計の足しにするのだとか。
生活の為に観光客に笑顔を振りまき、「私あなたの国好き!」「あなたの名前素敵!」などと相手を喜ばせる言葉をかけ、一生懸命物を売る彼女たちに、なんだか悪いことをしてしまったな…と一人反省の念に駆られました。
一面に広がる洗濯場の後ろには、高層ビル群。
なんともアンバランスな光景です。
ムンバイには億万長者が大勢住んでいる一方で世界最大規模のスラム街も存在するのだそうです。
ここはインドの格差社会がぎゅっと詰まったような街だと言われているそうですが、本当にその通りだと思います。ちょっぴりしんみりした気持ちで洗濯場を後に。
次に来たのはマリンドライブビーチ。
一見、夕日が美しい素敵なビーチです。
でも、海岸に近づいてみたら超絶ゴミだらけ。
あぁ、やっぱりいくら素敵な雰囲気纏っていても、ここはインドなのですね。
泳いでる若者とかいちゃついてるカップルとか大勢いましたが、みんなゴミ見えてないのかな。
慣れとは恐ろしいものです。
さて、ムンバイから行ける最も有名な観光地として必ず名前が挙がるのが、エレファンタ島という近海の島にあるエレファンタ石窟群。
島にあった象の石像が、その名前の由来だそうです。
アジャンター石窟群、エローラ石窟群と並んで“インド三大石窟”と言われ、世界遺産にも登録されているとのこと。
しかし、16世紀にムンバイを支配していたポルトガル軍が石窟の石像を的にして銃の練習を行ったため、まともに残っている石窟はたった一つのみなんだとか。。なんてことをしてくれたのでしょうか。
アジャンターとエローラに比べると、どうしてもエレファンタ石窟群は見応えが格段に下がるようなので、今回私はエレファンタ石窟群には行きませんでした。
その代わりに見に行ったのがこちら。
このボロボロの象の像が、エレファンタ島のエレファンタです。
元々は島にあったこの像ですが、19世紀にこの地を支配したイギリス人が無理矢理イギリスに持って帰ろうとして途中で挫折し、ムンバイに置いて行ったのだそうです。
今ではムンバイ市内の博物館の横に大して注目されるわけでもなくひっそりと置かれています。
島や遺跡の名前の由来にまでなったのですから、もっと珍重されても良さそうなものですが。
最後に、ムンバイで食べたフィッシュカレー。(100ルピー)
コルカタで食べたマスタード風味のそれを思い浮かべて注文したら、なんか全然違いました。(コルカタの方が美味しかった…)
そして、お米が何だか丸くて大きくて、そのくせぼそぼそしているのも何だかちょっと苦手でした。
そんな感じで、3泊もしたのにこれといったハイライトも無く、ムンバイ観光は終了。
でもインドの大都会を見られたのも、それはそれで面白かったです。
次回は今旅最後となるインド鉄道に乗って、首都デリーを目指します。
※ひどくまとまりのない文章になってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました💦
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